「仏の顔も三度」とは?意味や言葉の使い方、概要(元ネタ)など

「仏の顔も三度」とは?新語・ネット用語

この記事では、「仏の顔も三度」の意味を分かりやすく説明していきます。

「仏の顔も三度」とは?意味

仏様のように温和な人であっても、三度も怒らせるようなことをしてしまったら三度目は許されないという意味ですが、温和の頂点とも言える仏様でも、顔を三度もなでられると腹を立てるという意味から来ているとされていますが、伝承などから仏教の創始者、仏様とも呼ばれるお釈迦様が三度目に怒ったということまではないとされており、怒らせるような行為をした相手が滅ぶという予言が的中したというところが曲解されていたものとされており、お釈迦様はもっと心が広いものであるという見方もあります。

ただし、そうは言っても自分にとってお釈迦様にあたるような人を三度、四度と怒らせるべきではないとも言えるでしょう。


「仏の顔も三度」の概要

ものには限度がある、あまり相手の優しさに甘えてはいけない、調子に乗ってはいけないといった使い方が可能ですが、三度という具体的な数字が出ている部分がやや使いにくい言葉でもある部分で、その人が優しい人、温和であまり怒らない人であるということを強調して指すために「仏の顔も三度」という言葉を使うというよりは、これ以上やったらいくらあの人でも怒るぞというような警告として使うことが多くなっています。

二度あることは三度あるという言葉が対義語に近い位置に存在しているところが厄介な部分でもあります。

なお、こういった言葉で四度、五度というものはあまりなく、三度目以降は人間関係が途絶えてしまうというケースも有り得るでしょう。

仏の顔も三度という言葉は期間が指定されていないところがポイントで30年で三度と1日で三度ではかなりニュアンスが異なりますが、そこまでは言明されておらず、温和な人でも限度があるという意味が強調されています。

「仏の顔も三度まで」という表記も意味は全く同じです。


「仏の顔も三度」の言葉の使い方や使われ方

「遅刻も二度目までは許されたが仏の顔も三度という言葉もあり、次は遅刻ができない」「仏の顔も三度までということを甘く見た彼は停学になってしまった」などの使い方が挙げられ、戒める場合、罰が下ってしまう場合の使い方が多くなり、なにかルーズな行動をしそうな人に「仏の顔も三度だ」と注意を呼びかける使い方もあります。

仏の顔も三度ではなかったという使い方はかなり調子に乗っていると見られて仕方ないでしょう。

「仏の顔も三度」の類語や言いかえ

我慢の限界、堪忍袋の緒が切れるは我慢しているものの限界が来たという意味で近く、地蔵の顔も三度、兎も七日なぶれば噛み付くというものが相手の我慢に回数的な限度があるということでさらに近くなっています。

まとめ

仏の顔も三度という言葉は仏様そのものというよりは仏様のように温和な人ととらえたほうが良いと思われる説もあります。

いずれにせよ、温和な人の優しさに甘えすぎてはいけないという戒めがあります。