「大義」と「大儀」の違いとは?分かりやすく解釈

「大義」と「大儀」の違いとは?違い

この記事では、「大義」「大儀」の違いを分かりやすく説明していきます。

「大義」とは?

「大義」は、人が持つ道徳のことで、国家や君主という事実上のトップのような物に使えることです。

その為、「大義名分」というのは、国民である自分側が、国家や君主に対して守るべき忠誠を示す言葉を意味します。

ですので、「大義名分を穢す」というのは国民として国家に忠誠を誓うことを放棄したとみなすのです。


「大儀」とは?

「大儀」は面倒ごとを意味し、面倒であるが故「大儀」を任務とした場合面倒ごとを押し付けられたという意味になります。

「大儀」は、面倒ごとを意味するが故、労をねぎらう言葉として使用されますが、基本は面倒ごとを意味し、面倒であるが故、行動しないことを「大儀」と呼ぶのです。


「大義」と「大儀」の違い

「大義」「大儀」の違いは、国家などの忠誠を誓うことと、ただの面倒ごとという違いです。

「大義」は、国家への忠誠、「大儀」は面倒ごとであるが故、労をねぎらうことと覚えておくと分かりやすいです。

「大義」の例文

・『私の行動の理念に大義名分は無い』
この例は、私という人物は、行動を起こす際、国家に忠誠を誓うという考えはないという例です。

つまり、頼まれたから行動しているだけで、国家のために働くわけではないと言い切っています。

・『大義を弁える』
この言葉は、国家に忠誠を誓うべきと使命のように感じることです。

「大儀」は国家への忠誠で、「弁える」が指名のように考えることを意味します。

「大儀」の例文

・『生きるのも大儀、死ぬのも大儀』
この言葉は、生きるのも面倒である、死ぬのも面倒であるという意味です。

「大儀」は厄介ごとなのでこの場合、生きることと死ぬことは厄介であるが避けられないということになります。

・『今回の新人教育は大儀でした』
この言葉は、新人教育が厄介でしたがご苦労様です、という意味です。

「大儀」は厄介ごとのことで新人への教育がまさに厄介ごとでそれをねぎらっているのが上文になります。

まとめ

「大義」「大儀」の違いは、国家や国王など事実上のトップに忠誠を誓うことであるか、畳段に面倒ごとを受けてねぎらいを受けるか、面倒で終えるかです。

「大義」はいわば、個人間の忠誠のことで忠誠を誓うのは自分から見て必要であるとする事実上のトップになります。

逆を返せば、自分が必要ではない人物は別に「大義」という忠誠を示す必要性はないです。

そして「大儀」は、面倒ごとのことで面倒であるが故、相手をねぎらう言葉として機能しますが、ただ単に面倒という事実だけを意味する場合もあります。

その為、面倒だという意味で「大儀」を使用する場合必ずどういったことが面倒であるかを述べない限り、その「大儀」は何を示すのかわからず、面倒ごとのお礼で謝辞を述べているのか、本当に面倒だとだけ言っているかが分からないため、「大儀」の場合、まず何が面倒であるかを述べた上、「大儀」を使用するかお礼で「大儀」を言うのが良い方法です。

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