この記事では、「堂に入る」の意味を分かりやすく説明していきます。
「堂に入る」とは?意味
「堂に入る」は、学問や習い事のような物が板についていて十分に身に付いていることです。
堂は、昔で言うお寺のことでお寺で修練をしていたことを学問や習い事の修練と解釈したのが「堂に入る」でお寺に入ったものは熟練者となるまで修業を積むため、「堂に入る」は、修得者という意味に解釈されました。
「堂に入る」の概要
「堂に入る」は、お寺に入って修行をしている人物だったら達人じゃあないんじゃないの?という疑問を持たれるでしょうが、実はこの「堂に入る」は、論語の一説を省略したもので、実際は、堂に入りて室に入らずが正しい意味です。
この意味は修行者としては達しているが、本当の達人ではないことで室に入ると達人になり皆さんそれを目指して活動しますので一応堂に入っている人物は、修行が身に付き板についていることを指します。
よって、「堂に入る」は板についていることを指します。
「堂に入る」の言葉の使い方や使われ方
「堂に入る」は、習い事や勉強が板についたことを指すために使用します。
「堂に入る」を使った例文
・『堂に入るとは言うが、あきらかに修練不足だ』
この例は、習い事などで塾生ではあるが明らかに他の塾生として劣っていることを指します。
つまり、見習い扱いをして「堂にすら入ってない」と言ってもよいと言っているのです。
・『堂に入るスピーチだった』
この例は、板についたスピーチだと述べた例です。
自ら、自分の能力が周囲に伝わり、板についていたと持参しているのがこの例になります。
「堂に入る」はいわば、自画自賛のことであると言え、自分から言い出す場合、自画自賛になりやすいです。
・『堂に入る演技だった』
この例は、板についた演技だったと自画自賛をしています。
「堂に入る」は自画自賛になりやすく、第3者が称賛する場合、「堂に入った」というのが称賛の言葉になります。
まとめ
「堂に入る」というのは、いわば自画自賛であると言い切れます。
何故なら、自らお寺に入り自ら熟練者だというわけですからこれは自画自賛です。
逆に「堂に入った」と第3者が客観的に意見を述べた場合、それは称賛になりますので自画自賛ではなくなります。
その上で「堂に入る」が使いにくい理由は、如何というのがお寺などのお堂のことになるため、今一つイメージがつかめず、かつお堂は皆さんが同じことを修練としているため、習い事をしているという風に見えかつ習い事を習っているだけで熟練者を見分けるのは難しいのでは?と思うが故使用されなくなりつつある言葉です。
ただ、実際には、お寺の修行の場合、堂にすら入れない状態から修業が始まるため、一応、堂に入れるものは何年か経験を積んだ人物だという解釈になるため、一応熟練者扱いにはなりますが、本当に実力がある人物を指すかは疑問なので、疑問を持つ言葉は現在では使用しない方が良いという考えもあります。