この記事では、「広小路」【ひろこうじ】の意味や使い方、例文を分かりやすく説明していきます。
「広小路」とは?
「広小路」【ひろこうじ】とは、江戸時代に登場した路地のことであり、火災が起きたとき隣の家へと火が燃え移りにくくするための道という意味があります。
この「広小路」ができた理由は1657年に起きた明暦の大火であり、隣家との距離が近かったためあっという間に火が燃え広がり、街中が炎に包まれてしまいました。
そのことを受けて、上野や両国に設置されたのを期に、1660年に起きた大火には名古屋でも家が並ぶ間に「広小路」を設置し、火災防ぐ役割を担い、さらに火除土手を設置して火事が広がるのを防ぎます。
昭和戦前まではこのような道が街に多く設けられて、火事対策していたのです。
「広小路」の概要
日本家屋は木で造られているものが多かかったため、隣が燃えて火事になるとその火が移りやすく、あっという間に燃え上がってしまいます。
それに、隣同士がつながっている長屋という造りの民家は広範囲に火が広がったため、敷地があるところには「広小路」という道路を設けて、極力火が広がりにくいようにしたのでした。
主に、幅の広い街路のことを「広小路」と言い、城下町には延焼防止の防火帯の役目を担う火除地にしたり、江戸時代の後半になると見世物にしたり、屋台を出して、人が集まる場所としても使われていました。
この「広小路」で有名な地区が江戸にあった両国や浅草をはじめ、岐阜県の駄知町や大分県の杵築市などにあり、風情のある景色が広がります。
「広小路」の言葉の使い方や使われ方
普通の街路よりも幅広い路地を「広小路」と呼び、そこにはいつでも水がかけられるようにバケツを置くことで火事が広がらない工夫がとられていました。
この「広小路」が設けられた場所は家が入り組んだ住宅街や、店が多い繁華街などに設けられた道です。
名古屋で起きた大火後に武家地と街路の間に幅15間の街路が作られ、その後、城下町に人が集まるようになり、盛場となっていきます。
このように、火事が広まらないように考え出された路地を主に「広小路」と呼び、江戸時代には大いに役立つ路地となった道を主に指す言葉です。
類義語には「大通り」「表通り」があり、車やバイクが行き来したり、多くの人々が歩く路地を指します。
現代ではイチョウを植えてカップルがデートするお洒落な並木道として使われています。
「広小路」を使った例文(使用例)
・『広小路は納涼する所として人々が集まり、夜遅くまで涼みをしていた』
・『江戸時代には広小路では相撲や芝居がおこなわれていた』
・『両国橋では東西を町人に貸して収入を得て、水防にお金を使っていた』
涼みするために「広小路」を開放したため、夜遅くまで人々が集まって、うちわで扇ぎながら会話したり、相撲に熱狂する、芝居を見て楽しんだのでした。
両国橋では、町人に場所を貸すことで収入を得てはお金にして水防に力を注いで洪水を防いだり、田畑へ水が流れるようにしたわけです。
まとめ
普通よりも、広い路地を作ったことで隣の家へと火がまわりにくいようにするという江戸時代の知恵が、いまだ日本の様々な場所に残っています。
夏の川開きや屋台も出るなど「広小路」は、また別の使い方ができる所でもあり、人々の憩いの場となっていました。
どのようなものか知りたい人は「広小路」へ実際に行ってみるといいでしょう。