評論や感想を読んだり、コメントを聞いたりしていると「感銘」を受けた、「感服」した、という表現に出会うことがあります。
いずれも心を良い意味で動かされるほど感動したり、感心したりすることを意味しますが、その違いや使い分けを正しく知っている人はあまりいないかもしれません。
この記事では、「感銘」と「感服」の違いを分かりやすく説明していきます。
「感銘」とは?
忘れられないほど深く感動することや、心に深く刻みつけて忘れないことを表します。
「肝銘」と書くこともあります。
「肝」は身体を表し、体にしみいるほど心が震えて感動している様からつくられた言葉です。
似た言葉や表現に、感激、感動、感嘆、感心する、感極まる、印象に残る、感じ入る、ぐっと来るなどがあります。
「感銘」の使い方
「感銘」が使用される代表的な例文をみてみましょう。
・彼は学生時代、ドストエフスキーの小説カラマーゾフの兄弟に深い「感銘」を受けた。
・上司は取引先の社長の話にうなずき「お話にいたく「感銘」いたしました」と述べた。
・私は彼の熱心な講演をきいて強い「感銘」を受けた。
・重体の患者を前にした医者たちの奮闘は、その場にいた人々に「感銘」を与えた。
「感服」とは?
相手の見識・能力などについて、自分は全くかなわないと強く感じ、敬服あるいは気持ちの面で服従することを表します。
相手の実績や行いに、尊敬や尊重の気持ちを抱くことです。
似た言葉に感心する、敬服する、感嘆する、などがあります。
「感服」の使い方
「感服」が使用される代表的な例文をみてみましょう。
・十代の若者が書いたとはとても思えぬ達筆な書で「感服」の至りだ。
・楽団員のバイオリンの音色はとても洗練されていて、見事な腕前にほとほと「感服」した。
・男性はすぐに手をあげて反対意見を述べた。<勇気ある態度に人々は「感服」した。
・彼女の丁寧でミスのない仕事ぶりには「感服」させられる。
「感銘」と「感服」の違い
「感銘」は「肝銘」のことで、感動を体感するニュアンスがあります。
感動のあまり立てなかったり、涙がでてきたり、身体が震えるように心が感動した場合に使用するのが適当です。
一方、「感服」は相手の見識や能力に対して自分が及ばないと感じたときに使います。
涙がでてくるなど、身体的な反応が伴うというよりは、しみじみと相手の技や才能に恐れ入る心境を示しています。
相手に対して大小の「恐れ」や「敗北」を自分が感じた心持が背景にあります。
使い分けるときは、何に感動や敬服したのかを考えてみましょう。
能力や技術などが対象なら「感服」が適当です。
しかしロシア文学の「罪と罰」に「感服」した、と誰かが書けば、その人は小説を自ら書いているか、作家活動に詳しい人なのかという印象を与えます。
「感服」はその分野に詳しい人が技術や才能を認めたときに使うことがあるからです。
またどの程度の感動なのかも考えてみましょう。
心や体に残るほど、忘れられない感動ならば「感銘」が適当です。
まとめ
「感銘」と「感服」は人々の感動を表現する大切な言葉です。
二つの言葉は、感動にもさまざまな種類や様子があるということを私たちに気づかせてくれます。
ニュアンスの違いを理解すれば、人がどのような理由と気持ちで感動しているのか、「感銘」と「感服」という言葉を選んで使った人の心境の背景までを、深く想像し、知ることができるでしょう。