この記事では、「水掛け論」と「押し問答」の違いを分かりやすく説明していきます。
「水掛け論」とは?
「水掛け論」は、ひとつの問題について解決の糸口がない物についていつまでも無駄に時間を費やす論争のことです。
これは、「水掛け論」のもととなったのが田んぼに水を引く際に論争となり、いつまでたっても終わらない論争となり、最後には暴力で解決という方法にまで至ったが故、田んぼの水をかけあう論争から「水掛け論」と呼ばれるようになったのです。
「押し問答」とは?
「押し問答」は、一つの問題において、お互いが引かないが故議論が膠着している様子のことを指します。
ただ、押し問答は、「水掛け論」と異なり議論が頓挫しているにすぎないため、第3者が介入するなどをすれば問題が解決する分、「水掛け論」よりは解決の糸口が見えます。
「水掛け論」と「押し問答」の違い
「水掛け論」と「押し問答」の違いは、自分が持つ説をいかに相手に通そうとするかという違いです。
「押し問答」はただ自分の説について正当性を認めてもらえれ場両者お互い説を見直しよい物を作ることができますが、「水掛け論」の場合、完全に自分側が有利になるように自説を持っていくが故、争います。
その為、違いは、自説を相手に通す姿勢に違いがあり、「水掛け論」は自分勝手な言い分を通すこと、「押し問答」は、自分の見解を聞き入れてほしいだけであるという違いです。
「水掛け論」の例文
・『この議論は水掛け論に過ぎない』
この例は、議論している内容が平行線でお互いが両者を認めず、自分が正しいと主張するため終わらないとした例です。
「水掛け論」は自説を通すことのみにおいて執着することであるため、この場合、自分が正しいと主張することを「水掛け論」とします。
「押し問答」の例文
・『押し問答の末両者の意見は改良の糸口があると判断された』
「押し問答」は、自分の意見を通すことのみに着目しており、すべての考えを通すわけではないため、ある程度自分の意見が通れば両者は折れてくれるため、この場合、問答の末実は両者の意見には、欠陥がありそれを再度修正して持ってくるよう命じたというのがこの例になります。
まとめ
「水掛け論」と「押し問答」の違いは、自説にこだわる際のこだわりの強さにあります。
「水掛け論」は引くということを知らず、自説にものすごくこだわりますが、実は「押し問答」側は自説については必ずしも、すべてを通したいわけではなく、意見として聞き入れてほしいだけに過ぎません。
その為、ある程度自説が通れば、後は別にどうでもよいという意見へと変化しますので同じ意味合いに見えますが実は解決可能である点においては「押し問答」の方が解決できます。
また、「押し問答」と同じ意味合いの言葉として、「いたちごっこ」という物がありますが、あの言葉も実は解決策を考えれば、問題解決ができるという性質上、繰り返すことではありますが解決策はあります。
「水掛け論」側は、残念ながら、言葉の意味の語源から判断するに、お互いの主張を通すことにばかり神経をすり減らし、最終的に殴り合いになるまで決着がつかないという性質上、かなり悪質で、どちらかの存在が消えるまで続くという解釈です。
「水掛け論」は、殴り合いにまで発展した間柄を以前と同じように接してねというのは不可能ということになります。
逆に「押し問答」は、言葉の由来が一つ質問をすれば一つ答えを返すというやり方で続くという物なので、どちらかが納得すればそれでよい分どちらの存在が消えてなくなるまでに至らないというわけです。