「諦観」と「諦念」の違いとは?分かりやすく解釈

「諦観」と「諦念」の違い違い

心の在り方を教えてくれる言葉は、いくつかあります。

この記事では、「諦観」「諦念」の違いを分かりやすく説明していきます。

正しい中身を知って、より良い人生を過ごすヒントにしましょう。

「諦観」とは?

諦観(ていかん)とは、物事の本質を見ること。

諦めていいことはあっさり手放して、目の前の状況を受け入れることです。

「こだわりを捨てること」が諦観です。

諦観はメンタルトレーニングのひとつとして、最近注目されている考え方です。

諦観すると、自分でもなく相手でもない「第三者の視点」で物事をとらえていけます。

まるで大空をゆったり飛んでいる鳥のように、自分の悩みを広い視点で眺められるようになります。

諦観できるようになると、イライラや焦りなど負の感情が消えて、目の前の物事とまっすぐ向き合えるようになります。

余計なものがそぎ落とされていくので、気持ちに余裕が生まれるようになります。

自分でもびっくりするくらいやる気が出たり、いいアイデアが思いついたりします。

明日に向かう原動力になってくれるのが「諦観」です。


「諦念」とは?

諦念(ていねん)とは、諦める気持ちのこと。

人として辿るべき道を知って「そういうこともある」と良い意味で次に進むことです。

「いさぎよく諦めること」が諦念です。

諦念は仏教にゆかりのある言葉です。

仏の教えを知って、悟りの境地にたどり着くことを昔から「諦念」といっていました。

自分の心の中にある「迷い」を打ち消して、無の状態に近づけていくのが「諦念」です。

頑張ることが良いとされる現代では「諦めること」がネガティブなワードのひとつになっています。

けれども他人に過度な期待をかけるなど、欲望のまま生きるのは逆効果。

無理な押し付けが、かえって自分を苦しめてしまうこともあります。

何事にも惑わされない、良い意味で「期待しない状態」が諦念です。


「諦観」と「諦念」の違い

どちらも心の境地のこと。

「諦観」「諦念」の違いを、分かりやすく解説します。

・遠くから見る「諦観」と、迷いを捨てる「諦念」
「諦観」「諦念」は仕事やプライベートで悩みがあるとき、心の曇りを消し去ってくれる言葉です。

どちらも「あきらめる」という共通した目的があります。

諦観は「第三者の視点で見ること」

感情を打ち消して、冷静に自分の悩みと向き合うことです。

そして「諦念」は望んでも仕方のないことは、あっさり手放して諦めることです。

大空に舞う鳥のように、自分の悩みを見つめる作業が「諦観」

自分の環境や他人への、過剰な期待を捨てるのが「諦念」です。

どちらも自分の気持ちを整えたいときに、おすすめの方法です。

まとめ

「諦観」「諦念」の違いを分かりやすくお伝えしました。

諦観とは第三者の視点で、物事を見つめること。

諦念は過剰な期待を捨てて、いい意味で諦めることです。

どちらも「自分の気持ち」「目の前で起きていること」を切り離す方法のひとつです。

上手にコントロールして、自分らしい生き方を習得していきましょう。

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