毎日生活していると、時には、いろいろな物事について深く考える場面が出てきます。
そのような場面で使われることのある言葉で、「見識が問われる」というものがあります。
この記事では、「見識が問われる」の意味を分かりやすく説明していきます。
「見識が問われる」とは?意味
「見識が問われる」とは、物事の表面を見ているだけでは理解できない本質の部分を見る力が試される、といった意味になります。
ある物事についてしっかりと理解しているように見えるが、実際の所、本当にしっかりと理解しているのかどうかが疑わしい場面で使われる言葉です。
深い部分で物事を考えているかといったことなので、日常会話で使われることは少なく、会議や議論の席などで使われることが多い言葉です。
「見識が問われる」の概要
では「見識が問われる」とは、具体的にはどういったことなのか。
まず「見識」とは、本質を見る力、見ようとする力のことを指します。
テレビや雑誌、新聞やインターネットなど、現代社会には多くの情報が溢れかえっています。
どれが信用できる情報なのか判断が難しい世の中です。
そんな中、信用出来うる情報、これまでの人生経験に基づき自分の頭で考えて、物事の根本を見抜く力が「見識」です。
「見識」は、単体で使われることは少なく、見識があるのかないのかといった所で、「見識がある」「見識がない」といった使われ方をします。
そして「問われる」とは、聞かれる、質問されるということ、つまり、判断を求められるということです。
ですから「見識が問われる」とは、見識があるかないかの判断を求められるということになります。
「見識が問われる」の言葉の使い方や使われ方
「見識が問われる」は、一体どういった場面で使われるのか。
あなたは見識がありますかと直接質問するわけではありません。
わざわざ質問しなくても事の成り行きを見ていれば、見識があるかないかは自然に判断できる、といった状況で使われる言葉です。
また、あなたは見識がありますか、と直接質問するのも失礼にあたります。
「見識が問われる」を使った例文
・『日本の雇用問題について研究している大学教授がテレビの討論番組に出演する、見識が問われる場面だ』
・『犯罪問題に詳しいといわれるジャーナリストの見識が問われる』
・『討論番組では、出演者だけでなく司会者も見識が問われる』
・『情報過多の社会で全部が信用できる情報とは限らない、ひとりひとりの見識が問われる世の中と言っても過言ではない』
まとめ
「見識が問われる」について、例文をまじえて説明してきました。
先に述べたように、今の世の中は情報が溢れかえっています。
それらの情報の中には、もしかしたら信用し難い情報も含まれているかもしれません。
様々な話題や問題に対して、ただ表面だけの情報に惑わされず、今までの経験などから自分の頭で考えて本質を見ようとする力、本質を見抜く力が必要です。